タイトルはあきらかに「ショスタコーヴィチの証言」のパクリですね。
フランス語の原題は “les bémols de staline” (スターリンのアパート)だから、音楽之友社は「これじゃ売れない」と考え、この日本語題名にしたのでしょう。帯の紹介文が凄い。
東西をしたたかに往還した指揮者の衝撃の情報公開(グラスノチス)
恐怖の独裁者は楽譜に何をしたか ?
芸術家をプロパガンダの道具にした奴は誰だ ?
監視・弾圧・密告・粛清….翻弄される音楽家たち。共産主義体制下の不条理と水面下の抵抗を鮮やかに語る歴史ドキュメント。
だそうです。これに釣られて、読んじゃいました(^^;;;。
内容はそのとおりですが、やりすぎ。売らんがためのおどろおどろしい宣伝文ばかりで、ユーモアと皮肉の効いた語り口の本文からみると、かなり違和感があります。
本文の冒頭(「第1章 指揮者 ? ? ? ! ! ! 」)を引用してみましょう。
【プリュノ・モンサンジョン】私の記憶が正しければ、信用できないものに「医学」「太陽黒点」「指揮者の技法」の三つを挙げたのはトルストイでした。このような否定的な信条に、あなたは賛成なさらない
でしようね?
【ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー】この場合、私が信用できないのはトルストイの方だ ! 何をもっ
て「指揮者の技法」と呼ぶべきか、それが間題だ。指揮者として担ぎ出された偉大な音楽家が、指揮棒
を握ったらまったく不適任だという例はいくらでもある。昨今、ヴァイオリニスト、ビアニスト、チ
リストといった器楽奏者、それから歌手たちが、相当な自信を持って指揮台にのばる。彼らは自信満々
だが、ああ、オーケストラの方はそうはいかない理由は一つ、彼らと一緒に演奏しても、うまくいかないのだ。
この後、リヒテルは論外だった、パールマンは酷かった、という話に続いて、ヴァイオリニストのヴェンゲーロフの指揮者としてのデビューコンサートのポスターをチャイコフスキー・コンサートホールの前で見かけて、
デビュー ! それもプルックナーの第九番とは、すごいじゃないか ! あっけに取られて二の句がつげない私は、このホスターが目に入らないよう、チャイコフスキー・コンサートホールの前を避けて、通らないようにした。だが、ある日何を見つけたと思う? 結局、プログラムは変更されていた。ブルックナーはお払い箱だ。張り紙は上から下まで修正されていた「シューベルト《未完成交響曲》」。そう、一見ずっと簡単で、とるに足らない作品だ。心優しい友人か、彼の耳にささやいたのだろう。「こんな大変な仕事に、足を突っ込むんじゃない、まだ早いぞ ! 」と。
これはクバン州のコルホーズで、四人乗りの飛行機に乗ってキャベツの種まきをしていた優秀なパイ
ロットが、ある日突然コンコルドのコックビットに据えられ、モスクワーニューヨーク便を操縦する羽
目になった状況と似ている。それも途中寄港なしで ! 私が思うに、こんな飛行機に乗り込むと知った
ら、乗客は尻込みしてしまうだろう。
・・・・・多くの人が、残念ながらトルストイの意見に賛成し、良い音楽家なら誰でも指揮ができると思っている。それは間違いだ ! オーケストラの指揮とは、れつきとしたメチェ(特殊な技術を要する専門職)だ。たとえトルストイが信用しなかったとしても。
この本の情報は前々回紹介したレコ芸オンラインのサイトで発見しました。
筆者のモンサンジョンはグールドの映像作品の監督として有名です。ロジェストヴェンスキーを扱った映画も作成しています。この本はその素材を使い、再構成したドキュメントとなります。音楽作品で第一級の映像作家が、映像を捨てて、作成した音楽の本。面白そうだなと思い読んでみました。
ロジェストヴェンスキーは20世紀後半のロシアを代表する指揮者です。僕はショスタコーヴィチの交響曲の演奏位でしか聴いたことが無かったのですが、今回、この本を読んで驚嘆しました。なるほどソビエトコミュニズムの世界を生き抜き、指揮者として成功するには、こういう才能と胆力が必要であったかとよく分かりました。
この人、読売日本交響楽団の名誉指揮者をつとめ、勲三等旭日中綬章を貰っているのですね。知らなかったなぁ。
それでは帯の内容を本文でチェックしていきましょう。
恐怖の独裁者は楽譜に何をしたか ?
ロジェストヴェンスキーのボリショイ劇場へのデビューは1952年ですからスターリンとの接点はほとんど無かったようです。しかし恐怖の噂はいろいろ聞いていて、その代表例(第3章 ボリショイ劇場でのデビュー)。
《イワン、スサーニン》を指揮していたサムイル・サモスードは、休憩時間にポックス席のスターリン
から呼び出された。
「すべてが気に入った・・・ただ私が思うに、第一幕にフラットが欠けていたようだ」
スターリンはおそらく、フラットが何を意味するかさえ知らなかったのだろう。シャープでもよかったのかもしれないか、それは神のみぞ知ることだ !
・・・・・・
省略した部分は誰がスターリンにフラットを進言したかという推理と、「そんな推理は意味がない、スターリンの思いつきだ」という考察です。
サモスードは眉一つ動かさず、身じろぎもせず、「偉大な人民の父」に言った。
「ヨシフ・ヴィサリオノヴィチ、貴重なご意見に心より感謝いたします。直ちに訂正するよう努めま
す。残念ながら、休憩時間を約20分延長する必要がございます」
・・・・・・
「よろしい。しかし私は時間がない。大急ぎで彼らに説明しなさい ! 」
有無を言わせない「フラットを追加せよ ! 」が暗示するのは、「この分野でも、私はこんなに知識があ
るのだ ! 」という表明だ。「良いと思ラか、思わないか」ではなく、「具体的に正しいやり方を教えてあげよう」というわけだ。これはどの分野でも行使された。彼が自分で創り上げた虚構の姿を守るためだ。
第二幕では、すべてが改善されていた。欠けていたフラットが姿を現わしたのだ ! 皆が満足そうだった。
芸術家をプロパガンダの道具にした奴は誰だ ?
もちろんスターリンです。第5章「社会主義リアリズムのドクトリン」にその手下達の列伝が詳しく紹介されていますが、ポイントとなる二つの事件の記述を紹介します。
まず、1920年代~1930年代。ロジェストヴェンスキーの少年・青年時代となります。
比較的リべラルな風潮は、それから10年ほど続いた。芸術が共産党に支配され、完全な監視下に置かれる前までは、路線に沿わないこともわずかながらは可能だったのだ。その締め付けが厳しくなるのに、さほど時間はかからなかった。
すべてが終わったのは、30年代初頭だ。残されたのは党の定めた路線だけだった。それだけが真実とされ、どのような論述であろうとも、異を唱えることは決してできなくなった。
・・・・・・・
ほどなくして「形式主義者」たちを撲滅する戦いが始まった。「明るい未来」の名のもとに、攻撃の矛先が向けられたのがショスタコーヴィチだった。彼のオペラ(ムツリンスク群のマクベス夫人》は、署名のない記事—「プラウダ」に掲載された社説を書いたのは、スターリンに他ならないという人もいる—で「音楽の代わりの荒唐無稽」と評され、彼のバレエ作品はレニングラード劇場の演目から取り下げられた。イデオロギー運動がますます盛んになり、人を追い詰めるための道具となり、自己防衛の手段となり、「このろくでもない輩を、許してはならない ! 」と、気狂いじみたイデオロギー政策に拍車をかける場となった。
そして1948年の大事件。こちらは彼は音楽院で教育中ですね。
1948年2月10日は、音楽家たち、そして音楽界全体がもっとも破壊的な一撃に見舞われた日だ。それは政令という姿で、晴天の霹靂のごとく現れた。・・・・「音楽における形式主義について」という政令が発布され、その内容は、文化の領域でスターリンの右腕だったアンドレイ・ジダーノフによって作成された。彼はあまりにも優れた音楽家だったので、小さなアップライト・ビアノでポルカを披露する才能すらあり、それを自慢としていた。政令は発令されただけでなく、大衆の教育のために、何百万枚のビラに印刷された。
1948年の2月、私たちは突然にプロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、ミャスコフスキー、ハチャトウリアン、そしてシェバリーンなどが形式主義者であったと知った。標的となった人々を名指した綿密なリストが作成され、前述の作曲家はその一部分に過ぎない。形式主義は告発されていたが、それが何を意味するのかは明記されていなかった。
せめて、プロコフィエフによる皮肉な定義を挙げてみよう。「形式主義とは、一聴しただけでは理解されない音楽のこと」。対話の余地 ? あるはずがない ! 結果として、前述の名簿に挙げられた作曲家の作品は、演奏禁止になった。彼らの音楽は「反人民的」であり、掲げられた批判から身をかわすことは不可能だったのだ。
このあたりの記述は、以前紹介したヴォルコフの「ショスタコーヴィチとスターリン」と同じですね。
最後にロジェストヴェンスキーの強烈なスターリン批判。
皆が理由もわからずにドクトリンを承認し、何に対してかも実はわからないままに戦おうとしていた。今に至るまで、誰もこの教義の内容も、意味も理解していない。スターリンのお決まりの手口であり、最高指導者の天才的な頭脳に降って沸いた名案だった。「リアリズム」とは、本来なら「現実」を反映するものだ。そうだろう ? しかし、ここで言うところの「現実」とは、細密に、そして必ず美化されなければならなかった。批判は、それが悪意から来ていない限り、自然で健全な行為だ。しかしここには、すべてを良しとし、批判してはならないという示唆が潜んでいる。あるのは良いもの、すばらしいもののみ、それ以外のものが存在するはずはない、と。今日、「社会的リアリズム」とは何か、説明できる人は誰一人いないのだ。
・・・・・
誰かが「このシャツは白い」と言えば、「その通り、白です」と同意する。それが現実には暗色のチェックであったとしても「白だ」と答えなければ、翌日は牢獄という現実が待っているのだ。そんなところには誰も行きたくない。もう戻ってこられないのだから。
ショスタコーヴィチやプロコフィエフと異なりロジェストヴェンスキーの前半生はソビエト社会主義とまったく一致しています。新しい体制が牢獄のような社会に変わっていく。官僚組織の硬直化が進み、身動きがとれなくなる。そのような社会で権力を握るために何でもする人々。抵抗し抹殺される人々。など横目で見ながら何とか生きていく。こういうことを身をもって体験した世代ということになります。
監視・弾圧・密告・粛清….翻弄される音楽家たち
以降の章はほとんどがこの不条理な体制に翻弄される音楽家たちのエピソードです。
- 執拗な共産党への入党の誘いから、どうやって逃げまくるか
- オーケストラの海外公演で出国不可とされた団員のリカバリー方法
- 当局の目を無視し、好ましからざるとされる外国人と仲良く付き合うには
- オーケストラの10%を占めるユダヤ人演奏家をいかにスムーズに亡命させるか
- コスイギンに直訴してストックホルムフィルの首席指揮者になった経緯
- オーケストのプログラミングでソ連作曲家の駄作を回避する方法
- ソ連芸術家の海外滞在日数制限(90日)を延ばす妙法
などなど、とても役に立つノウハウ集です(^^;;;。
共産主義体制下の不条理と水面下の抵抗を鮮やかに語る歴史ドキュメント
ロジェストヴェンスキーが付き合った様々な音楽家に関する率直なコメントが面白いです。一章を使って書かれている人物はオイストラフ、ロストロポーヴィチ、フレンニコフ、ストラヴィンスキー、ショスタコーヴィチ、プロコフィエフです。フレンニコフ以外はそれぞれの人物との真摯な交流を描いたユニークな内容になっています。オイストラフの神経の過敏さ、ロストロポーヴィチの政治的打算の振る舞い、ストラヴィンスキーのインタヴューでのユーモア、ショスタコーヴィチの自曲に対する解釈のルーズさ、プロコフィエフの誠実さなど興味津々の内容です。
フレンニコフですが、上記の1948年の形式主義批判を契機にのし上がった人物です。作曲家連盟書記長をその後40年間以上にわたり居座り、ソ連崩壊と共に権力を失った。ロジェストヴェンスキーがこの人物に一章を割いた理由は、当然、徹底的な批判のためです。悪の根源みたいなものですからね。
まず、ショスタコーヴィチの交響曲第8番とプロコフィエフの交響曲第6番についてのケレンニコフの見当違いな評価をやり玉にあげ、返す刀で作曲家連盟書記長としての彼の愚劣な発言を嘲笑する。そして最後の仕上げです。
あといくつか、フレンニコフに関する事実を挙げてみよう。しかし、ここでは私の個人的な経験、またシュニトケを含めて周囲の人々に降りかかった事柄について話す。
随分昔のことになるが、私はある国家賞の受賞者候補にノミネートされたことがある。実際に受賞するためには、音楽院の大ホールでオーケストラと演奏しなければならなかった。もっともだ ! それが条件なのだから。しかし、私がこの威厳あるホールのステージに立つのは、厳密に言てこれが初めてではない。すでに六五四回も演奏している ! この過去の事実のみでも、受賞、もしくは不受賞の理由に十分だと思っていたのだが、ともかく賞の実行委員会の前で、一度演奏しなければならなかったたのだ。私はプログラムにシュニトケの交響曲第一番を組み入れていた。友人たちと家族は「どうしてまた、ことを面倒にし、自分から災難を引き寄せるようなことをするんだ ? チャイコフスキーの交響曲にしておけよ。少なくとも揉め事は避けられる」と説得に努めたが、この親切で分別ある言葉も、私を翻意させることはできなかった。私はどうしてもシュニトケの交響曲第一番を、そして第二部では、妻とプロコフィエフのビアノ協奏曲第二番を演奏したかったのだ。
実行委員会では、楽壇の要人フレンニコフが委員長を務めていた。彼はホールの客席にいた。コンコンサー
とはすべて滞りなく終わったかに思われた。しかし、少しあとになって聞いたことだが、コンサートに続いた受賞委員会の会合中、フレンニコフは怒り狂い、その攻撃は私を不受賞とするよう委員会に要請するに及んだという。その理由は、私が前もっ届け出ずシュニトケの交響曲を演目に入れたことだ。加えて、ホールには外国の大使が何人か出席していたので、それを狙って私がこのような小細工を弄したと非難したという。これに関して、私からは何も言うことはない !
まさに「歴史の証言」として語り継がれるべき内容です。
引用部分に登場する彼の妻はヴィクトリア・ボストニコワというピアニストです。この人、ロジェストウェンスキーに負けず劣らずのソ連音楽体制に対する抵抗派です。
本の真ん中あたりにトリオソナタと題する夫妻とモンサンジョン、三人での対話があります。夫婦で丁々発止とやりとりする間をモンサンジョンが絶妙のタイミングで合いの手を入れる。ちょうど全体の中央部分の章で、素晴らしい中間部となっています。冒頭部分を引用します。
ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー : 神は愛する妻と息子を与えて下さった。音楽家である彼ら二人とも、私にとって戦友であり人生の友、そして妻のヴィクトリア・ポストニコワは、偉大なビアニストだ。
ブリュノ・モンサンジョン : 優れた音楽家のお二人ですが、それぞれ個性が強く、性格も正反対でいらっ
しやる。お二人がどのように40年も結婚生活を続けてこられたのか、私は興味深く当いますね。音楽という共通言語を分かち合い、音楽に導かれているからでしようか?
ヴィクトリア・ボストニコワ : まず、ゲンナジーが首席指揮者を務めていたオーケストラと共に、ロシア、そして外国で、無数の演奏会を二人で行なってきたことが理由かしら。私たちはレパートリーを築き、今もそれは増え続けている。それに私たちはよく連弾もするのよ。ゲンナジーが怠け者にならないように。
ロジェストヴェンスキー.その通り、最近私はあまり指が回らなくなってきた。だから、ゆっくりの曲には興味がない !
ボストニコワ : だから、こんなに大勢の器楽奏者が指揮者になりたがるのよ。
モンサンション : でも召は違ったね。
ポストニコワ.それは何よりも、私が従順な妻で、この件に関して夫の考えをよく知っているからだわ。彼にとって、指揮は女性の職業ではないのですって。
モンサンジョン : 何かご意見は、ゲンナジー・ニコラエヴィチ ?
ロジェストヴェンスキー : え、何の話(笑) ?
モンサンジョン : 単なる質間ですが ?
ロジェストヴェンスキー : だから答えたじゃないか !
ボストニコワ : 誓っても、いいけど、正真正銘、これが彼の意見。彼の門下生には女性も随分いたのに。どうしようもないの。
ロジェストヴェンスキー : 私としては、彼女たちとの関係を深めるつもりも、継続するつもりもなかった
よ。
ボストニコワ : そういうことにしておきましょ。
モンサンション : しかし、女性はビアニストになってもいいのですね ?
ロジェストヴェンスキー : ここにその輝かし証拠がいるじゃないか。
ボストニコワ : もちろん、女性にだってすべての権利があるのよ….。
モンサンジョン : オーケストラの指揮たけはダメたと ?
ボストニコワ : 指揮だけはダメですって。でもそれは、夫の主観的な意見に過ぎないの。どちらにせよ、実に気が減入る職業であることは確かわ。
これはロジェストウェンスキーとボストニコフが共演したブゾーニのピアノ協奏曲のCDです。
この曲についても言及があり、モンサンジョンが「君のレパートリーには、演奏される機会がほぼ皆無の作品かあるね」とボストニコフを挑発すると、「ブゾーニのピアノ協奏曲の様な傑作を演奏出来て良かったわ」と返し、全曲の演奏に1時間半かかりプロコフィエフのピアノ協奏曲全曲を一晩で弾くより大変とか言い出し、それにロジェストウェンスキーが悪のりして「おまけに、プゾーニの協奏曲には男声合唱がある。それも、曲が終わる三分前にやっと始まるんだよ」そして「その合唱の前にとても甘美な音楽が流れるものだから、皆、寝てしまう。起こすのが大変だったよ」というとんでもない話を続ける。という具合。掛け合い漫才以上の面白さでした。
ロジェストウェンスキーは20世紀音楽に詳しく、シュトックハウゼンの電子音楽の楽譜をモスクワ音楽院から借りて調べたとか、シュニトケの交響曲は全て初演したとか、相当なものです。本文の中でもこれらの作曲家に関する言及があり、「20世紀後半、西欧の音楽界が駄目になったのはシュトックハウゼン、ブーレーズ、ノーノを越える作曲家が出なかったことだ。ロシアはショスタコーヴィチとシュニトケがいる。だから今や西欧中心の音楽優位の時代は終わったのだ」というような指摘をしています。とても興味深いです。
ロジェストウェンスキーは1931年生まれ、2018年に逝去しました。前半生は完全にソ連共産主義時代と重なっていますが、1991年ソ連崩壊後のエリツィンとプーチンの時代も経験しています。二つの時代を比較しての彼の感想です。
私は現在を理想化しているわけではまったくない。私たちは今、芸術の発展を妨げる重大な問題に直面している。それでもやはり、二つの体制二つの政治形態を思えば、現在の方がずっと良いことには間違いない。
なぜなら、芸術家にとって、体制のイデオロギーへの絶対的な帰属を強いられるほど、恐ろしいことはないからだ。私たちの場合は、すべての芸術が共産党に操られていた。これほど悲惨な服従があるだろうか。
勝ち得た自由にも欠点はある。自由はしばしば愚かさ、無秩序、ポビュリズムへの逸脱を生む。しかし、私はかっての体制が滅びたことを喜ばしく思っている。
この発言がロシアのクリミア侵攻の前か後かわかりません。しかし彼は2022年のウクライナに対するプーチン・ロシアの愚行は知らずにすんだ。もし、知っていたら、彼はどういう意見を述べ、どう行動したか。残念ながら永遠の謎となってしまいましたね。